旧士族の調査~を再加筆しました。(令和元年6月6日)

家禄奉還願い研究(1)

今取り組んでいる「家禄奉還願」について、いづれきちっとした文章にまとめてPDFにするつもりだが、どんなことになっているか途中経過的なものを報告しておきます。

まず、この「家禄奉還願」は、明治7年から8年にかけて、全国の武士や寺社仏閣の諸大夫・下級公家などの家禄を一時金の交付と引き替えに、没収してしまう、きわめて荒っぽい政府のリストラ策で、反抗することは出来ませんでした。

家禄奉還願いとは

家禄奉還願(1) 明治七年二月ヨリ八年七月ニ至ル 旧郡山県之部 家禄奉還願 / 奈良県庁文書 / 1-M7-10d / 556000114 / 1874
家禄奉還願(2) 旧郡山県之部 家禄奉還願 戸籍掛 / 奈良県庁文書 / 1-M7-11d / 556000115 / 1874
家禄奉還願(3) 明治七年 旧郡山藩ノ部 家禄奉還願 (二冊ノ内) 奈良県 / 奈良県庁文書 / 1-M7-12d / 556000116 / 1875
家禄奉還願(4) 明治七年 旧郡山県 家禄奉還願 / 奈良県庁文書 / 1-M7-13d / 556000117 / 1874
家禄奉還願(5) 明治七年 旧郡山県 家禄奉還願 (二冊ノ内)奈良県 1-M8-10d 556000118

公開された順番に、私がわかりやすいように家禄奉還願(1)・(2)・(3)・(4)・(5)と副題を付けました。

柳蔭会を復活させようとするには、誰が郡山藩の藩士・平士(明治期でいう卒)だったのか把握する必要がありました。郡山藩では何度かにわけて実施されていたようで、現在家禄奉還願いの簿冊5冊が奈良県図書情報館でデジタル化され公開されています。

以前より現物を公開されていましたので、私の遠祖に関するところはコピーしておりましが、皆さんの分をコピーすることは思いついておりませんでした。

大分限帳・明治の改正分限帳との照合

柳澤文庫で発行されている「分限帳類集」に江戸末期まで記載した大分限帳がありますので、これはもうずいぶん前に全部コピーしておりましたが、卒の方たちは僅かしかこの分限帳には載っておりませんので、別の史料を探す必要がありました。
私が見つけた史料の一つが先日公開した「士族被仰付度者 卒」の名簿です。
これで殆ど全部カバーできたと思っていたのですが、「家禄奉還願」を調査している中で、大分限帳には載っていないが、明治の改正分限帳に載っている方がおられることも判り、最終的にこの家禄奉還願いを全てダウンロードして研究を行うことと致しました。恐らく江戸末期にご当主が若くして死亡され、嫡子が幼少で藩に出仕できる状態ではなかった為、役職者だけを記載した大分限帳には載っていなかったのだと推察されます。明治の改正分限帳にはお名前があります。「家督」すなわち「永世碌」ですので、明治の改正分限帳には記載されたのでしょう。家禄奉還願いを見ていますと、嫡子が幼少のため実兄が後見人がついているの時々あります。(次男が養子先で相続)

家禄奉還願は全部揃っているのか

今まで確認できたのは総計1150名です。改正分限帳(樋口氏文書)によると、士族1105人、新士族789人。総計1896人だったと書かれていますので、まだ750人近くの方の家禄奉還願いが確認できていないことになります。(樋口氏の合計が総計と合いません。1939人になるのですが、何方が違っているかは判明していません)

さて、この5冊の簿冊ですが、担当者によって旧名や相続のことを記載させたものと、全く記載させていないものがあり、極端に違います。簿冊(2)と(4)は旧名・相続のことが詳しく書かれていますので、この2冊に記載されている方のご子孫だと、江戸期の名前と照合することが出来ます。

しかし、他の3冊は全て明治に改名させた後の名前ですので、江戸期の武士名と照合することは不可能です。各家で伝承して頂いていないと、同姓の者が多くいる場合には全く判断がつきません。

改名・相続を確認できたのは 総数と割合は

この5冊のうち旧名・相続のことを記載しているのは(2)と(4)だけです。

(2)のデータ

家禄奉還(2) 改名率
総数 241
改名 126 0.48
相続 60 0.25
改名+相続 186 0.77

(4)のデータ

家禄奉還(4) 改名率
総数 119
改名 46 0.39
相続 39 0.33
改名+相続 85 0.71

武士の名乗りを悉く否定された

武士の場合は苗字+名乗り+姓+実名 というのがありました。

拙家の場合ですと 中澤+小一兵衛+源+勝〇 というのが本来の名前です。

現実的には中澤小一兵衛と名乗り、源+勝〇は余程親しくないと教えませんでした。

生まれてすぐに付けられる名前は5~6才になり、袴をはくようになると別の名になり、元服(15歳前後)の時に烏帽子親から一字名を頂いて、また改名することとなります。偏諱授与(へんきじゅよ)と言います。ただ、拙家の場合は代々用いてきた諱(いなみ)がありますので、この一字改名はしておりませんでした。主君と雖も、鎌倉以来の家に対しては少し気を使うような傾向が他藩でもみられます。

明治に戸籍が出来た時に、姓(苗字)と実名だけというようになったこともあるでしょうが、〇〇兵衛や〇左衛門・〇右衛門・〇〇助などの武士特有の名は、戸籍に載せてもらえなかったようです。

どうやら、烏帽子親との関係を切らせようとの魂胆があったのでしょうが、何故こんな単純な改名をしているのか、意味が解らないものが多々あります。

それにしてもこの改名は凄まじい。実際にデータとして目にすると、明治のこの時点が如何に大変な時代であったかよくわかる。

異常に多い相続は明治5年の旧藩士達の騒動が原因か

又、相続の割合が異常に多いのが目につく。明治4年の戸籍登録からたった3年余りで、30%ほどの家で相続が発生している。これは戸主の隠居によるものもあろうが、殆どが亡跡相続になっている。

一体この3年の間に何が起こったのだろうか。江戸後期にコレラの流行があったのは判っており、明治10年ころにも流行したのは確認しているが、この3年の間にコレラの流行は確認できていない。

考えられるのは明治5年1月に起こったという旧郡山藩士たちによる騒動としか思いつかない。この時に新政府によって多くの士族が殺傷されたのだろうか。

拙家に残る西氏よりの手紙に、ー実は読み切れていないのだがー、曽祖父が拘留されたのではないかと思われるような記述がある。無実だと元気づけているような手紙なので、もしかしたらこの事件が関係していたのかもしれない。内容としては「無実が証明される」というような激励の手紙であった。余りにも達筆で、素人学者には荷が重い。

まだ、概要がおぼろげながら見えてきた段階ですので、今はこの程度のご報告とさせて頂きます。