抑々大和の国は古代より春日大社・東大寺・興福寺などの庄園と国衙(国の直轄支配地)が殆どであった。各寺社が支配する荘園内の指導的農民が武士化してゆき、衆徒(しゅと)・国民(こくみん)と呼ばれる武士団が成長してきた。
箸尾・筒井・十市・椿井などの豪族は、興福寺と密接な関係をもち、興福寺の塔頭の多くは、これら豪族一族の菩提寺でもあった。
江戸期に入り、これらの衆徒は没落したのであるが、寺社直轄の地は減少したとはいえ残っており、幕府が入部させた大名が支配できたのはそう多くない。
江戸末期に残っていた藩は
郡山藩 | 柳澤氏 | 15万石 | 城持ち |
高取藩 | 植村氏 | 2万5千石 | 城持ち |
櫛羅藩 | 永井氏 | 1万石 | 陣屋 |
小泉藩 | 片桐氏 | 1万1千石 | 陣屋 |
芝村藩 | 織田氏 | 1万石 | 陣屋 |
柳本藩 | 織田氏 | 1万石 | 陣屋 |
田原本藩 | 平野氏 | 1万石 | 陣屋 |
この7藩だけであった。
城持ちは郡山藩と高取藩だけで、他は陣屋を構えただけであり、禄高からいってもごく僅かしか武士は存在していなかった。
郡山藩15万石で、藩士1200人余・卒800人弱 合計で2000人弱だったことを考えると、高取藩はその1/6なので300人余であろう。
奈良県が明治初期に調査した各藩の名簿が奈良県図書情報館の公文書の中にあるので、一人づつ数えれば集計することも可能だが、その集計が歴史的意味を持つとも思われないので、研究の対象にはなっていないようである。
郡山藩だけで見れば、廃藩置県により職を失った人は2000人余、その家族も含めれば1万人を超える人たちが収入の道を断たれ、更には廃城令により士分であった者の住まいは城の一部とみなされ解体の対象となり、僅かな秩禄処分金を得たとは言え、突然路頭に迷ったのである。
忽ちにして困窮する士族たちの為、旧藩主や幕末に執権職にあった者たちは、秩禄処分で得た金銭を出し合い、桑園の経営に乗り出していたことが確認できるし、又、肉食文化の流入により、奈良市西寺林に肉店を出店していた士卒があったことが確認できている。
しかし、急激なインフレに翻弄され、政府より交付された秩禄処分の金銭債権は忽ちその価値が下がり、明治20年頃には旧藩士たちが行っていた殖産事業も解散せざるを得なくなり、士族たちは各地へ散らばり糊口を凌いだのであった。
このような困難な時代をへて、昭和15年ころまで、長年にわたり「柳蔭会」は存続していたが、太平洋戦争の敗戦により国土は焦土化し、日本中が困窮したこともあって、戦後は完全に忘れられてしまった。
全国を見れば、旧藩士後胤達の士族会を継続している処が幾つかある。郡山藩も続けてきたのだから、何とかこれを復興して次の世代に渡したいと願っている。
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