旧士族の調査~を再加筆しました。(令和元年6月6日)

武士の禄高はどの位か

武士の世界

武士の給金は禄高(石高)で表している。これがその家の基本給だと考えれば良い。
抑々、この禄高(石高)とは何かというと、農地1反あたり収穫できる米が凡そ1石であるということが基本になっていた。

そこから農民家族の生活費・来年への種籾・肥料・鎮守のお宮や寺への費用負担・農耕馬・村での必要経費などを差し引いて、約40%が年貢高とされていた。
この経費を引いた額が4斗(1石の40%)で、これを米俵に詰めたものを1俵という。凡そ60kgになる。

例えば100石取りの武士だと、表向き100石の米が採れる知行地を持っているという事なのだが、実際上は藩で纏めて年貢を徴収し、それを各武士に年3回に分けて配分していた。
この基本給にプラスして御役料が付く。これは〇俵単位で表している。

禄高が100石の御槍奉行の場合は、実際に給されるのは(現米という)40石(米俵40俵)と本役に対する御役料50俵、兼任している御普請奉行の御役料30俵であった。

これを金銭価値に換算すると、収穫の状況により相場の変動があったとは言え、米1俵の平均的な価格が凡そ1両であったので、禄高分40両+本役の御役料50両+兼任奉行の御役料30両。合計120両の収入であったと考えられる。

大人一人が食べる米が年に1石と言われていた時代であるので、この奉行は裕福であったろう。

ある史学者(故人)はこの御役料も表向きであって、実際は石高と同じようにその40%程度が実際の収入であったと主張するが、私はこの御役料は実額であろうと思う。其処まで穿った見方をするのは、何か武士階級に遺恨でもあるのではないかと邪推してしまう。

私が実額であろうと思うのは、藩士達に給される御役米・扶持米とは別に、寺社への寄付・祈祷料の処で〇〇寺〇〇俵、但し「三ツ六分」と記載していることに起因する。

つまり、藩士達には1俵4斗の籾米であるのに対し、寄付や祈祷料は実際に食べられる状態(白米)にして寺社仏閣の祭殿・仏殿に供えることを考えると容易に推測できるのである。

「三ツ六分」とは精米された状態の米だということが判ると、俵で書かれているのは米蔵で保管できる籾米の状態をいうのだと推測出来る。

一般的に武士の実収入を石高の「三ツ五分」や「三ツ六分」というのは、精米した時に残る実際の白米のことを指すのである。

前掲の御槍奉行の例を見ると、禄高によるものは実は40俵(100石の40%)に対し、御役料は2つの奉行を兼任したことで80俵(50俵+30俵)になっており、役職手当が禄高の2倍になっていた。この実収入を逆算すれば、この奉行は実は300石取の武士だったということが判る。御槍奉行は御家老衆だったことを考えると、御役料で他の同僚武士との均衡を持たせたのである。

珍しいケースではあるが、このような例は偶にみられる。

この御役米が全部本人の収入になれば良いのだが、御役料とは、その役職を勤める為の経費負担も含まれてのことである。部下たちへの心配りも必要であり、又、家士(その藩士が雇用者となる武士・藩主から見れば陪臣)や中間・女中などを抱えなければならず、支出も多くあり、額面で思うほど豊かであったとは言い切れないように思う。まあ、無役と比べれば経済的な余裕は確実に良くなったであろう。

郡山藩の分限帳(藩士名簿)を研究してみると、一番多いのは40石である。実は郡山へ来る前にいた甲府は新田の開発などで実収入は25万石くらいあったと言われているほど豊かであった。

初代藩主柳澤吉保公は終身江戸詰めであったので、参勤交代に掛かる費用は全くなかった。
それが2代吉里の代に郡山へ転封されたことによって、以降参勤交代で出府せねばならず、甲府時代と同じ碌を支払っていてはとても持たないので、郡山へきてから20%「減知」されたのである。甲府時代は50石取の武士だったのである。

この一番多い40石の武士は努力次第で中間管理職まで昇進することが出来た。

寄合並まで昇進した〇田〇衛門は禄高40石、御役料30俵となっている。
寄合並の中で一番高禄なのは100石であるが平均すれば70石前後が一番多い。この中へ40石の禄高で昇進しのだから、中々の人物であったのであろう。

40石の40%=16石=16俵+御役料30俵=46俵=46両ということになる。ここでも実収入は禄高の3倍ほどになっており、115石の武士とほぼ同じということとなり、同僚達との均衡を計っている。

このように、役職相当の碌高というのがあり、それに足らない武士には御役料を多く与えて、同僚達と同じ扱いを受けられるようにしていたのである。これを足高制という。

仮に6人家族と考えて、1年間に必要な米は6俵。あとを現金に換えて副食や着物・塾のお礼などを引いても、十分裕福であったと思われる。

しかし、御役に付けなかったら16俵だけなので、家族6人と考えるとそう余裕があるとは思えない。

郡山藩に於いては能力のある者は出世して御役に付き、御役料を貰えるのでそれなりの生活を出来るが、能力の無い者、つまり学業・武術等の必須科目に及第点を貰えないようだと、辛うじて武士の体面を保っているだけという事も多々あったのである。

平士の場合は〇両〇人扶持という給与体系になり、一番多いのは3両2人扶持である。
この扶持というのは、一人一日5合の米を給されることで、太陰暦を用いていたので一か月30日、年360日として計算され1.8石の米を給されることである。(明治3年だと10月に閏10月が追加され、1年が13か月になる。閏月はあってもその月は給付の対象とはならない)

それが2人だと3.6石ということになる。3両の現金と現米3.6石(3.6俵=3.6石)。すなわち年6.6両の収入という事になる。

この人たちが御役に付くと、勤金が付加される。これは現金で2分とかになるのだが、成績が良いと勤料1人扶持・勤金2分というものある。

これらの平士は上士に支配されるので、実際は上士からの心づけなどもあり、実収入はもう少しあったのではなかろうか。

いづれにせよ、武士とはいえ、決して裕福な生活を送っていた訳ではなく、大目付・目付・小人目付などにより、常に不正がないか監視されていたのであり、時代劇で出てくるような菓子折りの下に現金が入ってるなどというのはまず無かったと言ってよいだろう。

現代と違い、下手をすれば切腹もの。情状酌量があっても藩から永久に放逐であるので、常に緊張を強いられていたのである。武家地・町人町とハッキリ区別されており、武家地に遊興場がある筈もなく、若い者の楽しみといえば、非番の折に薬師寺の鎮守である休所八幡宮付近まで、弁当を持参してピクニックに行くくらいのものだったという。

しかし、偶には少し羽目を外す者もいたようで、時々街中へ息抜きに行っていたようである。

郡山の遊郭は明治になってから出来たのであり、江戸時代には存在していなかった。しかし矢田筋や岡町の辺りには旅館があり、飲食店も多くあったようである。

余談になるが、江戸後期にこの付近に出入りした武士が、人が大勢いる場所でならず者に因縁を付けられ辱めをうけた。止めるよう説得したが聞き入れず益々激しくなり、これ以上続けば無礼打ちにするぞと警告したが、やれるものならやって見ろと居直られてしまった。困った武士はやむを得ず周りの町人衆に証人をお願いして一刀のもとに無礼打ちにし、直ちに目付へ自首したことがあった。これは元々どうにもならない程のならず者だったようで、町役人(町人)や町奉行でも予てより手を焼いていた者だったらしく、お構いなしになったようである。

現代の私たちから見れば、武士とは窮屈なものだったと思う。毎日の生活は町人や農民の方が遥かに気楽で、自由が利き、楽しかっただろう。

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