先日より「家禄奉還願」をエクセルで一覧表にしようと毎日没頭している。
773名の平士、明治初期でいう「卒」の人たちは、殆どが地元の人だったようだ。
柳澤氏が甲府から転封になったとき、在地で雇用していた人々は殆ど解雇し、士分のものだけで郡山へ移ってきたことは、以前から知っていた。
大分限帳にも平士のところで、右側に「譜代」と書いてあるのが、甲府から移ってきた人たちであろうと考えていた。
かれらは大分限帳の中では極めて少なく、770人を超える「卒」(家禄奉還願を提出した人たち)の90%以上が元々郡山に住んでいた人達だったと思われる。
明治に士族に転入させた名簿の中には、「半人扶持」の人もおられた。案外優しい扱いをしたものだと感心している。
今4つに分かれて保存されてきたこの名簿を、そのままで4つのテーブルに分けて、順に書いている。
有難いことに、奈良県図書情報館で文書名と発給者名を読み下してくださっていたので、随分手間が省けている。何か所か読み違いをされているところもあったが、これはご愛敬である。
4つの冊子のうち、3番目と4番目は居住地区まで読んでいて下さった。本当に助かっています。
中には一紙に30人を超える人たちが連署で書かれているのもあり、これは一づつ名前を書きだして将来検索しやすいようにし、苗字だけだが、ふりがなもつけるようにしている。
この作業をしてる中で感じたのは、父親が亡くなって相続している人たちの多いことである。通常の死亡相続とはけた違いに多い。これは何を意味するのかと考えて入る。
幕末より明治にかけての動乱の中に、郡山藩も少しは巻き込まれていたのは知っているが、相当な数の死者を出していたとは聞いたことがない。
拙家の曽祖父は戊申戦争に出陣していたことが判っている。当時近江の国金堂(今の神崎郡金堂)の郡山藩代官所には曽祖父の叔父が代官として家族共々赴任しており、在地で収穫できた豆を戦地へ送ろうとしたが「好便」がなく遅れなかったと、小一兵衛に書き送っていたことが手紙の裏書に書き残されている。
他藩と比べれば戦死者は少なかったのだろうが、郡山藩の歴史としてこういうことは公表されていない。かろうじて私が入手した情報と言えば、大和志料に採取された川村織江が大正期に語った言葉しかない。
この「家禄奉還願」は幾つもの疑問を私に投げかけているように感じる。どう捉えたたよいのか、まだ検討もつかないが、いづれ何かが見えてくるのではなかろうか。
あと2~3日でリストの作成は終わると思うので、それから少し知恵を巡らせてみたい。
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